植賀寿夫さん連載「僕とお年寄りと認知症」第4回_介護の仕事に出会うまで~情熱の原点~

介護の仕事に出会うまで~情熱の原点 | 僕とお年寄りと認知症(4)

介護職の皆さんは、どんなきっかけで介護のお仕事に就かれたのでしょうか。いろんな理由があると思いますが、植さんが介護職に就くまでにはちょっとしたドラマがありました。介護の仕事にかける情熱の原点が、そこにあるのではないでしょうか。ご紹介しましょう。

障がいがある友人から「介護の仕事に向いている」と言われた

この先は、ちょっと自分の「これまで」を振り返ってみたいと思います。介護職を目指したきっかけ専門学校時代の実習でのエピソードなどをご紹介しますね。

1979年、ぼくは男同士の双生児の次男として生まれました。中学3年生の頃、父が他界して一家の稼ぎ頭がいなくなり、勝手に貧乏になったと思っていました。

高校に入り、サッカー部に入部しました。部でおそろいのジャージを買うことになったのですが、値段が高い……。せめてスパイクやジャージのお金ぐらい自分で稼ごうとアルバイトを始め、ジャージ代は給料日まで待ってほしいと監督に伝えました。すると、監督は「着とけ」とジャージを手渡してくれました。

その日の夜、監督から母親に「お母さん、そんなにお金がないんですか?」と電話がありました。ジャージのことなど何も知らされていなかった母は恥ずかしかったと思います。のちに、母は1度だけ試合を観に来たらしいのですが、ぼくのプレーよりも、破れまくっているスパイクを見て泣いたそうです。

先輩が引退するときは、後輩に練習用ユニフォームを売ることが部の決まりでした。ぼくは、憧れてはいましたが買うことは諦めていました。でも、先輩たちはぼくだけを部室に呼び、売るはずのユニフォームを「お前にやるよ」と何枚もくれました。各国の代表ユニフォームだったのですが、「マジで!?」とすごく嬉しかったのを覚えています。

ぼくが介護の仕事を知ったのは高校3年生のときです。

同じサッカー部に、耳に障がいのある友達がいて、部活が終わった後から二人で居残り練習をするようになりました。会話は筆談。そんなある日「お前、福祉の仕事に向いてるよ」と言われたのがきっかけでした。

なぜ彼がそう言ってくれたのか確認したことはないのですが、おそらく普通に接していたからかなと思います。グラウンドの土に石で文字を書いたりして、障がいのことを何も問題視していなかったからなんじゃないかなと。

植賀寿夫さんが介護の仕事を知ったきっかけを描いたイラスト

高校卒業後は大工に。でも、介護職になる夢は諦めなかった

さっそく進路指導の先生に相談しましたが先生は、「資格がないと働けない」と言いました。資格をとるためには専門学校に行かなければなりません。父親が亡くなって、進学を目指していた3つ上の姉も高校を卒業して就職したため、専門学校へ行くなんて選択肢はぼくにはありませんでした。だから専門学校に行くことも、介護職に就くこともやめたんです。

結局、高校卒業後は職業訓練校に行きました。父は大工をしていたので、働くといえば、大工ぐらいしか考えられませんでした。そこで、いきなり現場に行っても仕事はできないだろうと、職業訓練校に願書を出しました。

晴れて大工になったぼくの初任給は、12万円。文句はありませんでした。新米のころです。現場に入っても、掃除しかできませんでした。余った木を捨てるのですが、どれが捨てる木なのかも分からなかったものです。ですから初給料を棟梁から手渡しで貰うとき、自然に「すみません」と謝っていました。

手持ちの現金はすぐに無くなりました。ノコギリなど仕事に必要な道具がたくさんあったんです。初ボーナスの日、楽しみにしていたぼくの所に棟梁が来て「ほら、ボーナス」と電動ノコギリを渡されました。まさかの「現物支給」でした。

一度、2階の屋根から落ちそうになりました。なんとか1階の柱に引っ掛かり、転落事故にはなりませんでしたが、脇を強打しました。一部始終を見ていた棟梁が駆け寄り、「落ちるなよ! 一滴でも血を現場に落とすな! 家を買う人に迷惑だろ!と叱られました。このときは理解できませんでしたが、今思うと良い会社だったなと思います。

植賀寿夫さんが介護の仕事をする前に大工をしていたころのエピソードを描いたイラスト

1998年10月、ぼくは大工を辞めました。理由は、毎日棟梁に怒られるのが嫌だったから(笑)。大工を辞めようと決めたとき、再度、専門学校に挑戦してみようと決意しました。高校生の頃は自分で学費を稼ぐ手段を思いつけなかったのですが、今だったら大丈夫だと思ったのです。

大工を辞める直前は、棟梁と同じ部屋に寝泊まりして現場に行っていたので、棟梁がお風呂に入っているときだけ、カバンの底から本を取り出して試験勉強をしました。試験当日は「法事」ということで広島に帰りました。試験に合格したのを確認して退職。

それからは入学金を払うために工場で派遣アルバイト。しかし、それでは入学金が間に合わないと分かり、夕方に終わると違う工場の夜勤に向かう、朝になるとそのまま昼の工場……そんな生活をしました。

昼食の500円のコンビニ弁当も300円の弁当になり、やがて「弁当忘れました」と冷水だけでした。それでも何とか給料を前借りして期日ギリギリで入学金を払いました。

バイトを掛け持ちし、空腹に耐えて…ついに介護福祉士に!

専門学校へ入ると、週2回、近くの養護学校(支援学校)で、宿直非常勤講師として学校の寮に泊まっている生徒の介助をしました。同時にパチンコ屋でもバイトをしました。ですから本当に遊ぶ暇はなかった記憶があります。

パチンコ屋のバイトは深夜3時ぐらいに終わることが多く、家に帰って寝ると、どうしても寝坊してしまい、学校に遅刻していました。ですからバイトが終わるとシャワーだけ済ませ、学校の駐車場まで行って、車の中で寝るようにしました。朝は学校の誰かが起こしてくれました。

当時は軽自動車に乗っていました。修理する余裕もなく、切れたヘッドライトもなかなか交換できませんでした。車を乗り換える頃は、走れば常に何かの音が激しく鳴り響き、ブレーキまできかない状況で、代わりにサイドブレーキで調整していました。

よく事故にならなかったものだと、自分でもあきれますし、許されないことなのはわかっています。でも、そのくらい、お金がなかった。服もジャージ2着しかなく、そのうち1着は、見かねた彼女がプレゼントしてくれたものでした。たった2着のジャージで、よく2年間乗り切ったものだと思います。

学校でも弁当が買えない日がありました。空腹をゴマかすために廊下のソファーでよく寝ていたんですが、それを見かねた女子が弁当の蓋に、みんなからの少しずつのオカズと、半分に折ってくれた割り箸を添えて、「食べんちゃい」と差し出してくれました。

そんな暮らしぶりではありましたが、ぼくはなんとか「介護福祉士」を取得できました

植賀寿夫さんが介護の勉強をするために専門学校に通っていたころの姿を説明するイラスト

高校3年で父が他界したことで、大学進学を諦めた姉。また、双子の兄も進学ではなく就職しか考えていませんでした。ぼくもそうです。しかしぼくは大工を辞めて専門学校へ行きました。「学費さえ母に負担させなければ良い」としかぼくは考えていませんでした。

専門学校2年のときに、同居していたおばあちゃんが死にました。そのときぼくは悲しいとしか思っていませんでしたが、実はぼくの知らないところで、姉も双子の兄も母に葬式にかかる費用を渡していたんです。それを知ったとき、ぼくは本当に情けなく、恥ずかしい気持ちでした。

学費を払わせなければ良いのではなく、あのときは働いて少しでも家庭にお金を入れないといけなかった。ぼくだけがそれに気づいてなかったんです。

だから、入学したときも「ぼくだけ好きなことで専門学校へ行った」といううしろめたさも少しありました。そうまでして資格を取った以上、ぼくは介護の仕事で食っていくんだ!と強く決意したんです。

著者/植賀寿夫
イラスト/國廣幸亜

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