植賀寿夫さん連載「僕とお年寄りと認知症」第3回_最期まで生活者として支えたい

最期まで「生活者」として支えたい | 僕とお年寄りと認知症(3)

今回は、植さんが施設長を務めていたグループホームではじめて利用者さんの看取りをしたエピソードをご紹介します。がんの症状が進む利用者さんに、どんなケアができるのか――植さんたちはそれを手探りで見つけます。最初はお看取りを不安がっていた職員たちの、心境の変化に注目です!

施設での初めての看取り。がんでも大往生だったおじいちゃん

今回お話するのは、ぼくが働いていたグループホーム「みのり」で初めて看取りをおこなったときのエピソードです。看取りをさせていただいた利用者・前さんが教えてくれたことは何だったのかを振り返ってみたいと思います。

2012年11月3日5時ごろ、89歳の前さんは寝息を立てながら眠り、次の呼吸を忘れたかのように静かに逝かれました。施設に住んで8年、当時一番長く住んだ人でした。

朝4時、夜勤者から「息がおかしい」と連絡が入り、施設に駆けつけました。息を確認して主治医に連絡。ぼくはただ前さんの手を握り最期を待ちました。本当に穏やかな時間だったように思います。

前さんの手を握りながら、ぼくは思い出していました。

昨日まで歩いてトイレに行き、スラックスを履き、ベルトをきゅっと締めていた前さん。元トヨタ営業マンでバリバリ働いていた前さんは、施設に来たときもその貫禄ある姿から「社長さんですか?」とよく間違われたそうです。

植賀寿夫さんが勤務するグループホームの利用者さんのイラスト

じっと腕を組みながらたたずんで、こちらが話しかけなければ1日中黙っているんじゃないかというほど寡黙な人でしたが、職員の動きを見て、そっとドアを開けてくれたり、工作を始めると、お願いしなくても必ず手伝ってくれるなど、気配りなどをさりげなくこなす人でした。

「患者」ではなく「生活者」として最期まで支えたい

2009年の夏、前さんの鼻の中に小さながんが見つかりました。当時のドクターと奥さんが話し、治療はしないと決めたそうです。前さんはそれからも畑を耕したり、種をまいたり、窓から外を眺めたりして、介助も必要なく穏やかな時間がすぎました。

だんだん、がんが大きくなり、鼻の穴を完全に塞ぎ、口の中にまで進出してきました。入れ歯が合わなくなり、その頃から食べる量が極端に減りました。これまで当たり前に食べられていたものに手をつけようとしないのです。好きなものは何か、品を変え、形を変え、栄養補助食品もゼリーにしたりしました。

やがて車椅子での移動となりました。この頃から職員の中に葛藤や迷いが出てきました。「入院はまだなのか」「しんどそうだから寝かせてあげたい」「起こさないほうがいいのではないか」「パジャマのほうが楽そう」……そうしていくうちに前さんは、“患者”と変わらない生活になりました。

医療体制が充実していれば、治療優先でいい。しかし介護施設で、しかも看護師すらいない「みのり」で最期を迎えるということは、治療より優先にしないといけないこともある、という選択です。

前さんはぼくたちに希望を言ってくれません。そんな体力もありませんでした。

前さんは死に対してどんな考えをもっていたかなど、誰も確認したことがありませんでした。言葉での意思疎通が難しくなってから、ぼくたちは前さんの気持ちを汲み取る手段がわかりませんでした。ある職員がぽつり。

もっと話しとけばよかった……こうなってからじゃ何もわからん

ぼくたちはこれまで「安全か、危険か」「介助がいるのか、いらないのか」――前さんをそんな視点でしか見ていなかったことを反省しました。

ただ、最期まで「生活者」として支えたいという思いがありました。わからないからこそ、決めつけるのでなく、いろいろ試して前さんの顔色をうかがおうと決めました。

介助して起きてもらったらどんな表情をするのか、パジャマを着替える、いつものスラックスを履いてベルトを巻く、車椅子から立ち上がろうとする前さんの脇を抱えながら歩く……。そうやって過ごしていくうちに、「これはトイレの合図」など、表情・しぐさでわかることが増え、少しずつケアの方向性が見えてきました。

植賀寿夫さんが利用者さんの整髪をするエピソードのイラスト

前さんのトレードマークは、バッチリ決めているオールバック。ある日、鏡の前でぼくがいつものオールバックをつくろうとしていたとき、職員に「植さん、違いますよ」と指摘されました。

その職員は「前さんはね、オールバックにするときには必ず、一旦髪を全部前に落とすんですよ」と前さんの櫛の使い方まで真似ていました。

ぼくたちは形だけでなく、「それまでの過程」を大切にしていくようにしました。個人が持っている「癖」をも再現していくことが、「生活を支えること」に繋がると思うんです。

「この施設で看取るしかない」職員たちから覚悟を感じた

2012年10月。寒くなっても散歩を続けました。

ご家庭の事情から、前さんには「自宅」と呼べるところはありませんでした。かといって病院が好きでないことは、毎回病院に付き添ってわかっていました。

だから、この施設しかない

職員はこの先のことが不安な様子でした。がんがどうなっていくのか、どんなことが起こりうるのか、入院はしないのか……。これまでこの施設で亡くなった人はいませんでした。職員は想像できなかったんだと思います。

ドクターは、「がん細胞がまちがって動脈を噛んだら、多量の血が噴きあげて床一面血の海になる」と真顔で言います。職員全員が恐怖にかられていました。

このときに決めたのは「血を噴いたらバスタオルでしのぎ、風呂場へ運ぶ」ということでした。全員が「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん……」という、重い雰囲気になってしまいました。

しかし、ぼくたちはケアをあきらめませんでした。しばらくするうちに、「思いついたことがあれば何でもやってやる」という覚悟のようなものを職員たちから感じるようになりました。

寒い日は厚着をして散歩に行き、リビングで日向ぼっこしたり。前さんの食べられそうなものは思いつく限り、冷蔵庫に準備しました。今までで一番、職員が一丸となって集中したと思います。それは頼もしくも見えました。その雰囲気は他の入居者にも伝わり、「あの人は悪いんねぇ」と気にかけられたり、手をにぎり、話しかける人もいました。

そうして少しずつ「最期」の準備が進みました。朝、施設に出勤するとまず前さんの部屋に行く。「前さん、おはよ!」と言って、起きているのかわからないまま、前さんの様子を見ていると、胸の上にある左手だけがピョコっと挙がる。「元気?」と聞くと、ピョコっとしてくれる。これで十分だったような気がしています。

植賀寿夫さんと職員さんが男性利用者さんのお看取りを介護職として懸命にサポートするエピソードのイラスト

前さんが亡くなった朝、集まっていたある職員が「”看取り”は怖いものとは違った」と言いました。それにはみんな共感しているようでした。「最期」はいろいろな背景もあり、場所もある。前さんの希望かどうかはわかったとも言えないし、希望どおりとも言えませんが、この介護施設で亡くなった最初の人が前さんでよかったと思っています。

「うちの施設で看取ったことがあります」と言えることが、前さんからもらった大きな財産。

これからも大切にしていきたいです。

著者/植賀寿夫
イラスト/國廣幸亜

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